12/30/2017
sim letter - from メトロノリ "湖に行って!" の事
sim kenji様
曲を聴いてくださって、ありがとうございます。私の仲間が作ったビデオをまた送ります。これは、白樺湖で撮った三部作のビデオのうちの、最後のものです。
あなたは分身たちの音楽を作って、DJwwwwや、+you、$ega & the rainbow streetsなど、多くの存在が生まれました。それぞれが、それぞれの生を深めて曲を作るのを応援しています。
湖に行って!
Video: 須藤なつ美監督
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立っている背中のほうで、グリーンバックの布がその向こうを隠していた。グリーンバックに山の映像を須藤さんは投影し、私が振り返るとその覆いが外れ、実際の山の景色が見えるようになるという順序だった。だとしたら、そのとき、音楽のほうは、何かを露わにしたような明瞭さに似ないように引き離すべきだと思った。私は、曲を変えると言った。
東京に戻ってきた車は街の光を受け始めていた。噛み合わない状態が引き金であるように、音楽が思い浮かぶ。追いつくのが不可能な失速を思い、夜を強烈に感じる。いつも、時間の暗がりまで、視力がとどかない深さが現れている夜。いいえ、それは暗いだけではない、予測のできない、たくさんの光が増す、白い黄色い点滅は、柱の陰に隠れながら逃げまわる女性でもあって、笑い声を残し続けた。今は夜だが、重なるヴェールの間で非常に明るい昼のことを考えていた。
思い出すことには、眠気が伴う。決意の時や、涙を流す時、はっきり目覚めていた気がしていても、後になってそれを追うときは、あれは、私に起こったことは、そんなに難解なことだったの?
違う。これは思い出に属するものではない。戸惑うのは過去の記憶の不明瞭さに対してではない。このイマージュはただ現在のものだ。
突然、暗がりの中で湖面を見つける(地図と湖との関係は分からない。朝が来て知ることだが、私たちが見ていたのは白樺湖ではなくその隣の小さな池だった)。深夜の黒い影の中で色彩は休んでおり、何も見えないようなのに、一部、穏やかな小さな突起の波が光を反射させて揺れている。私たちの時間が触れ合うのは、どんなときか分からない。音と光はやまないのに。
歌うための歌が、私の曲の中で引き裂くような疑問になる。歌おうとしなくては、この問題に入ってゆけない。
このビデオは、はじめ『港の二人 遠くみて』という曲のため作られていた。ビデオを3人で作りながら、まっすぐ前から上半身が映るショットの撮影をした日、私は新たな曲を作らなくてはという思いにかられた。自分がはっきり歌っているといわないような曲にしたかった。何かを言い聞かせるのではなく、覆い隠す手段さえあれば、と私は思っていたのだが…
「何言ってるかわからない。」彼女は動き回っていて、言葉が定着する間もないみたいだ。東京と山の向こうでは電波が悪いのか、須藤さんの言葉がおかしいのか、笑っても仕方ないのに何度も…本当に聞こえない言葉を繰り返し言ってもらう。大丈夫、話し合いは終わり。私たちは、少しずつ伝達しあって作った。3つの製作において須藤さんは巨大な遺品のようなホテルも、山の上までゆくゴンドラも、湖の一周も、博物館も、撮るために動き回って、すごい行動力だったが、同時に驚くのは彼女がカメラを置いて、見て、撮ってしまう早さだった。映像を見たら、「小ささ」の異様とも言うべき印象や、すみずみまで空気が緊迫しているような微動が映し出されていて、それに感動した。そして、剥がれるグリーンバックのところは、謎めいて魅力的な答え。
「何も写らない」ことも、写さなくてはいけない物の一つとして、そこにある。「NASAの映画、セットを細部まで頑張って作ったのに、真っ暗で、全然映らなかった。」小林くんは喋っていた。私はその映画を観られていないが、全く、須藤さんらしい状況だと思った。私がその奥を通り過ぎている時、展示のガラスケースの表面に、白い細かい血管の図のような曇りが大きく浮かび上がっている。私の好きな映像。曲とビデオは影響を与えあっている。そう感じる。
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